○○の日。(源平)

平重盛 没

平家の行く末を憂い、熊野参詣において

「入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。
栄耀又一期をかぎって、後混恥に及ぶべくは、重盛が運命つづめて、来世の苦輪を助け給へ。」(巻第三・『医師問答』)

と祈り、帰洛後まもなく病に伏せてしまいます。
治療をも拒み、j治承3年(1179)8月1日、平家の行く末を憂いつつこの世を去りました。
享年43歳。

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平重衡 処刑

元暦2年、南都の僧たちにより木津川の河原で斬首されました。
享年29歳。

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福原遷都

その目的は、以仁王の謀叛以降、関係が悪化していた南都をはじめとする反平家勢力との衝突を避けるため、といわれてきました。
瀬戸内海をおさえる(=西国の物流掌握)要所・大輪田泊の存在や、外交(日宋貿易)など、グローバルな視点にも迫った説を読んでいる最中なので、それについてはまた後日。

以下、疑問というかいつものヘリクツです。

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以仁王 謀叛

高倉の宮以仁王(後白河院の皇子)と源頼政(東京国立博物館でみた太刀のお方です→日記はこちら。)が平家を倒すべく挙兵したものの、早い段階で発覚・鎮圧となりました。

とはいえ、この乱がきっかけで源平の戦い(治承・寿永の乱)が幕を開けるのですから、その意味合いは大きなものだと思います。

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壇ノ浦の合戦

清盛公が太政大臣となってから壇ノ浦での一門滅亡まで20年弱。
ほんの四半世紀の間に栄華を極め、消えていったとなると世間ではどれほどの衝撃だったことでしょう。

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墨俣の合戦

平重衡率いる平家VS源行家率いる源氏。
以前にも書きましたが(平家物語 年表にリンク貼ってます)、結果は平家の圧勝でした!
富士川での敗走、南都焼討ち、そして清盛公の死。
平家にとって暗澹たる出来事が続いていましたので、読んでいて少しホッとする場面です。

dangerこの先、源氏、というか行家さんが好きな方にはゴメンナサイな内容です。

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忠盛昇殿

天承元年(1131史実では1132)、平忠盛は武士として初めて内裏への昇殿を許されました。

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三草山の合戦

寿永3年(1184)、平家追討のため一の谷を目指していた範頼と義経。
それを三草山にて迎えうつ筈だった平家の大将は資盛。
7日の開戦に備えて休んでいたところに夜討をかけられて…結果は、言うまでもなく。

というか、言いたくない。です。

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平清盛 没

閏2月4日、熱病により波乱にとんだ生涯を閉じた清盛公。

この病はマラリアだった、という説があります。

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治承4年(1180) 奈良炎上

年の暮れのこの日、平家と僧兵が衝突し、南都(奈良)の東大寺・興福寺が焼け落ちました。

平家の大将は平重衡。
夜戦になり民家に放たれた火が、折りからの強風であっという間に燃え広がったといいます。

続きはまた後ほど。

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治承2年(1178) 安徳天皇 誕生

世は平家の春。

当時は賤しい身分とされていた武門の血を引く皇子が、この日誕生しました。

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文治元年(1185) 義経 都落ち

春に壇ノ浦で勝利した源氏。
季節は秋へと移ろいます。
まるで、義経主従の運命を暗示するかのように。

鎌倉の地を踏むことを許されず、再び京の都へと戻ってきていた義経。
一方、兄頼朝は義経抹殺に向けて動き始めます。
まず土佐房昌春に暗殺を命じるも、あえなく失敗。
次いで、範頼には義経追討の命を辞退され、結局北条時政に軍勢をつけて上洛させました。

これを知った義経は11月1日、叔父の行家らとともに九州を目指して都を発ちましたが、大物の浦(現・兵庫県尼崎市)から船出後、海上で嵐に遭遇し難破。
西国落ちはかなわず、吉野を経て奥州へと向かうことになりました。

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霜降/治承4年(1180) 富士川の合戦

今日から二十四節気のひとつ、【霜降】。
いよいよ晩秋となり、文字通り霜が降りる頃となります。

そしてもうひとつ。

治承4年は日本史上5本の指に入る内乱の幕開けとなった年です。
この年の4月に内乱の切欠となる以仁王の反乱が起こります。
平家によって鎮圧されましたが、8月には以仁王より令旨を賜っていた源頼朝が東国にて挙兵。
石橋山の合戦で源氏は惨敗し、平家は頼朝追討のため東国へと向かいます。

平家の総大将は、平維盛。
殿下乗合で相手をボコった影の黒幕(?)、小松内府殿の息子さんです。
両者は富士川を挟んで対峙しますが、結果は平家の敗走でした。

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嘉応2年(1170) 殿下乗合(てんがのりあい)

世は平家の春。

孫を辱しめられたことに激怒した平清盛が、報復するという事件が起こりました。

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寿永2年(1183) 水島の合戦

木曾VS平家、最終戦。

この年の7月に都を離れ、一度は大宰府まで流れた平家でしたが、その後讃岐の屋島へ渡り、勢力を挽回しつつありました。
義仲は平家を攻めようと、矢田義清ら七千余騎を向かわせ備中水島(現岡山県倉敷市)に陣を構えます。

その戦いの火蓋が気って落とされたのが、閏10月1日の出来事です。
(旧暦では暦と季節のズレを修正するため、1年が13ヶ月の年があります)

続きは後ほど

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元暦元年(1184)藤戸の合戦

一の谷で敗れ、屋島に本拠地を移した平家。
源範頼率いる追討軍を迎えうつべく、大将軍を平資盛・有盛・忠房以下、海路にて備前児島(現岡山県倉敷市)へと向かいます。

一方、船を持たない源氏は、藤戸(同)に陣を構えていましたが、敵を目前にしながら剣を交えられず虚しく時が過ぎるばかりなことに臍をかんでいました。
その均衡を破ったのは源氏方の佐々木盛綱。
土地の者に馬で渡ることのできる浅瀬を聞き出し、9月26日の朝、「ここへ渡って来い」と挑発する平家に応えて先陣をきります。
それに続く範頼軍に攻め立てられた平家は、四国への撤退を余儀なくされました。

続きはまた後ほど。

佐々木盛綱は、後に鎌倉殿から先陣を切って海を渡った褒美にと、児島の地を与えられています。

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寿永元年(1182) 横田河原の合戦

木曾VS平家前哨戦。
果たして、勝敗の行方は…?

続きはまた後ほど。

木曽での義仲挙兵を受け、平家は城四郎助茂(じょうのしろうすけもち)を越後守に任じます。
しかし。
横田河原(現長野市・千曲川河畔)での戦いは、土地勘のある木曾側の勝利に終わりました。
平家は城四郎の敗走によって、北国でのストッパーが機能しなくなり、徐々に雲行きが怪しくなっていきます。

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寿永2年(1183) 平家都落ち

今日の帰り道、夜の9時を過ぎているというのに蝉が鳴いていました。
何か、ヘンですよねぇ。

さて。
倶利伽羅の戦いで圧勝し、勢い付いた木曾義仲の軍。
その勢いのまま、都の平家を攻めようと進軍してきます。
一方平家。
それを食い止めようとはするものの、飛ぶ鳥を落とすがごとき木曾とそれに呼応した源氏の勢いを受け、都を離れ西国へ向かうことを選びました。

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福原遷都/壬生浪士と力士の乱闘

関東では昨日梅雨入りし、今日の台風接近。
直撃は免れたものの、雨と風がもの凄いのでヒッキー決定。
それにしても、今年は台風の当たり年なのでしょうか?

福原遷都
治承4年(1180)、平清盛は都を福原(現・兵庫県)へと遷しました。
同年12月には京へ都帰りしたため、わずか半年間の遷都でした。

壬生浪士、大坂力士と乱闘
文久3年、勤皇の志士を取り締まる為に大坂へ出向いていた芹沢鴨ら壬生浪士8人と力士らの間で乱闘事件がありました。

事の発端は、道を譲らなかった力士に芹沢がキレて無礼打ちにしたこと。
それを知った仲間の力士が報復にやってきて乱闘になり、力士側に死者まで出る大騒ぎとなったようです。

芹沢がキレた背景は、大坂力士の中に勤皇思想を公言して憚らない者がいたためと言われていますが…
思想を口にするのも命懸け。

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治承元年(1177) 鹿の谷事件

スクープ!!
鹿の谷にて平家打倒の密談!?か?

5月25日未明、京都西八条・平清盛氏(59)のもとに衝撃の一報がもたらされた。
その内容は、平家への謀反の動きがあるというもの。
首謀者は新大納言成親(39)・西行(年齢不詳)兄弟、俊寛僧都(年齢不詳)、平康頼(年齢不詳)。
加担者には多田行綱をはじめとする北面の武士のほか、国家レベルの大物も名を連ねているという。

街の声を聞いてみた。
「やっぱりな・・という感じですよ。新大納言さまは平家一門の出世を快く思ってませんでしたからねぇ。ご気性の荒い方ですし、何より、ご自分が昇格できないのを恨んでらっしゃるんじゃないですかね」

なお、清盛氏の怒りは凄まじく、謀反人を捕らえるべく六波羅には一門の武士が集結しているという。
さる大物の関与が確証され次第、密談の場である鹿の谷(俊寛僧都の別荘)へ向かうと思われる。

ゴシップ風に書くとこんな感じでしょうか?
(すみません、ふざけ過ぎました)

俗に言う『鹿(しし)の谷事件』。
平家の絶頂期、謀反を企てたものの、怖気づいた裏切り者(多田行綱)によって平清盛に知れるところとなります。

さる大物とは。
言わずもがな、源平の大天狗・後白河法皇さま、でございます。

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寿永2年(1183) 篠原の合戦

平家VS木曾義仲、第3戦。
富士川・倶利伽羅に続き木曾側の勝利に終わりました。

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兵どもが 夢の跡

倶利伽羅の合戦
寿永2年(1183)、挙兵後、北国経由で上洛を目論んだ木曽義仲と、それを迎えうつ平家(大将・平惟盛)が倶利伽羅(現石川県と富山県の境)にて衝突。
結果、平家は大敗を喫しました。

歳三忌
新撰組副長土方歳三は明治2年、箱館・一本木関門付近にて銃弾を受け戦死。
男の意地を通した生涯に幕を下ろしました。

↓ 以下、続き。

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寿永3年(1184) 平惟盛 入水

平惟盛は高野山で出家後、熊野沖で自らその生涯を閉じました。
享年27歳。

一の谷で敗走後、屋島に拠点を移した平家でしたが、その中にあってどんな気持ちで過ごしていたのでしょう。
富士川の合戦では『ビビる』の語源となる失態をやらかし、倶利伽羅峠でも大敗北。

何だか、気の毒でなりません。
平家の皆さんに、適材適所の四文字熟語を叫びたい。(T_T)
嫡流にさえ生まれなければ、ここで入水することはなかったのか…とか、考えるとキリがありませんが、どちらにせよ、この先にあるのは壇ノ浦。
辛い運命には変わりないのが切ないです…。

折りしも、ちょうど桜が満開。
『桜梅の少将』と呼ばれた彼の、少しでも慰めになっているでしょうか。

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元暦2年(1185) 壇ノ浦の合戦

「見るべき程の事は見つ」

全てを見届け、壇ノ浦へと身を沈めた平知盛が最期に遺した言葉。
もうひとつ、開戦前に味方を鼓舞した言葉も印象的です。

「いくさはけふぞかぎる。物ども少しもしりぞく心あるべからず。
(中略)運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそをしけれ。東国の物共によわげ見ゆな。いつのために命をばをしむべき。」

命を惜しむな、名を惜しめ、と。

 家族思いで『父親』以上になりきれなかった宗盛と、どこまでも武士(もののふ)だった知盛(武士であらねばならなかったのでしょうけど)。
愚劣な兄と優秀な弟として比較対照されることが多い二人ですが、平家物語は飽くまでも『物語』。
史実と異なる部分がありますし、脚色や書き手の主観もかなりあるかと思います。
登場人物の性格だって、ある一点のみを強調しているのかもしれませんし。
要は「宗盛さんもがんばったんだよぅ」と言いたいだけですが、何か?(開き直っちゃったよ、この人)

話を壇ノ浦に戻します。
初めは優勢だったものの、徐々に追い詰められてゆく平家。
これがまた、悔しさのあまり鼻血を吹きそうな内容の戦いですが、前回以上の源氏批判になりそう(てか、なること間違いなし)なので、今回は自主規制。
能登守・平教経が源氏の兵3人を途連れに海へ飛び込んで壮絶な最期を遂げ、平知盛が乳母子とともに入水して戦は幕を下ろします。

 桜が咲き始めたのに、今日は朝から雨。
これって、誰かの流した涙雨なのでしょうか。

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治承4年(1180) 安徳天皇践祚(せんそ)

 この天皇、後に呼ばれる『安徳』の名は諡(おくりな・死後に贈られる名)で、諱(いみな・本名)は言仁といいます。
(皇位に就くことを【践祚】、それを公に発表することを【即位】というそうです)

 諱について。
古くは中国の思想らしいですが、「本当の名はその魂を縛する」というような言霊の概念(信仰?)は各地にありますよね。
 昔の人々は、呪術的な意味も含めて高貴な人を本名で呼ぶのは恐れ多い…とのことから、軽々しく口にはできませんでした。
ただ、それでは色々と不便なので、多くは通り名や役職で呼ぶようになります。
 この慣習は武家階級などへと継がれて行きます(例えば、沖田総司房良・織田三郎信長の太字部分が諱、斜体部分が通り名にあたります)。

諱は実父や君主しか呼ぶことが許されない、大事な大事な名前だったんです。
なので、時代劇などで家来が「信長様ァ!!」と絶叫するのは、本当はとんでもないこと。
首が飛んじゃいます。

 閑話休題。
『安徳』という諡、怨霊封じのためにつけられた名だという説があります。

 井沢元彦氏の逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)によると、『徳』の文字は鎮魂に役立つと考えられていたとされています。
ある時期に限り、諡に『徳』の字が付く天皇は無念、または不幸な最期を遂げられており、名に『徳』が付くからといって、必ずしも徳のあることを示す訳ではない…と。

昔は「疫病は怨霊のタタリ」と本気で信じられていましたから、平家一門と共に海へ沈んだ幼帝を鎮魂するため『安徳』の諡号を贈ったのでしょうか。

 清盛直系の孫が天皇となることで平家は絶頂期。
ここからわずか5年後に一門が滅亡するなんて、思いもしなかったでしょうね。

 

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寿永4年(1185) 屋島の戦い

那須与一の扇の的や義経の弓流しで有名な屋島の戦い。

これより少し前…
平家方の原田種直が葦屋浦(現・福岡県)にて山陽道を下ってきた源範頼率いる源氏軍に打ち破られる戦いがありました(葦屋浦の戦い)。

原田種直は九州における平家方最大の勢力であり、ここは平家にとって重要なポイントでもありました。
一の谷(現・兵庫県))で敗走後、平家は長門(現・山口県)に拠点を移しましたが、九州を押さえられたことによって前後を挟まれるかたちとなり、滅亡へと加速して行きます。

 この原田氏。
紆余曲折を経て子孫は会津藩士となり、戊辰戦争では官軍と戦ったとのこと。
人や歴史ってどこかで繋がっているもので、奥が深いとつくづく思います。
(そういえば昨日のテレビ番組で、坂本龍馬が明智光秀の子孫との説があるとか言ってたなぁ。)

↓以下、つぶやき。

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寿永3年(1184) 一の谷の戦い

   人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢まぼろしの如くなり
   ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか

 織田信長が謡い舞ったことで有名なこの一節、幸若舞の『敦盛』によるものです。
(ドラマでは必ずといって良いほどこの場面がありますよね)
 【幸若舞】室町時代に流行し戦国武将が好んだとされる曲舞(くせまい)

 熊谷直実は一の谷で平家の若武者を討ち取ります。
我が子と変わらぬ年頃の若武者(=平敦盛)を討たねばならなかったことに世の無常を感じ、後に出家。
(実際は領地争いに負けたためとの説もありますが、そんなオトナの事情はここではスルー)

 その敦盛が討たれた戦いが、今日ということになります。
平家はこの一の谷で、多くの将を失いました。
(謡曲の題材となっているエピソードが非常に多いです)

  『敦盛』のなかで熊谷は「人間五十年…」と人の命の儚さを語ります。
信長はどんな気持ちで舞ったのでしょうか。

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寿永3年(1184) 三草山の戦い

 木曽義仲に都を追われ、一度は大宰府まで下った平家でしたが、源氏が内輪もめ(鎌倉方VS木曽)している間に福原まで盛り返していました。
一の谷に拠をおく平家に対し、後白河院より三種の神器を取り戻すよう命を受けた源範頼(大手)・義経(搦め手)は2月4日に平家を攻めようとしましたが、この日は清盛の命日ということで7日に延期します。
 ところが5日の夜、義経軍に三草山(現兵庫県。一の谷より山側)を夜討され、ここに陣を構えていた平資盛(清盛の孫)らは敗走してしまいました。

 そりゃ、負けますよね。
戦いに備えて休んでいたところをガッツリですよ?
何てったって、戦闘開始は7日の朝となっていたんですから。
源氏の作戦勝ちか、平家がお人よしだったのか。

 ツイてない時ってとことん不運が重なるもので、このあと勢いに乗る源氏とは対照的に、平家は追い詰められていっちゃうんですorz
平家の不運はここに始まった訳ではありませんが(泣

 『おごれる者もひさしからず』と序章に語る平家物語。

呆れるほどお人よしな人々の、花の命のような繁栄
合理的な人々の、石の命のごとく続いた繁栄

無常の世の中、悔いがないのはどちらでしょうね。

↓以下、つぶやき。

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平清盛 没

 今日は24節気のひとつ【立春】。
昨日の大雪とは打って変わり、暖かな一日でした。

 治承5年(1181年)閏2月、平清盛が熱病のため世を去りました。
1118年の生まれですから、単純に計算して享年63。

 この熱病というのが猛烈なもので、水風呂に身体を浸せば瞬く間に水が沸騰、水を浴びせようとすれば水は寄り付かず炎となる有様。
(本当だったらコワイ)
 平家物語中では、東大寺や興福寺をはじめとする奈良の寺院を焼き払った報いだとされています。

 とにかく、悪い人。
朝廷を蔑ろにし、驕り高ぶった成り上がり者。
でも、他の作品では思いやりのある振る舞いをしたと賞賛されていて、むしろ良い人。
ひとつの物事も、視点によっては全く別のものになる…ってよくあることですけどね。

 人間ならば『悪』しか持たないなんて、そうそうあることじゃないと思うんです。
『善』も然り。
清盛公の場合、落差が激しすぎて周りを振り回しちゃうのが玉にキズなんですけどね。
その人間くささが魅力だと感じるのは、平家を愛する所以でしょうか(笑
わたしの中では『幾つになってもやんちゃなおっさん』です、清盛さん。

↓以下、つぶやき。

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宇治川の戦い

寿永3年(1184)の今日、『宇治川の先陣争い』で有名な宇治川の戦いがあり、源範頼・義経らによって木曽義仲が破られました。

 木曽義仲は平家を京から追い出したまでは良かったのに、ちょっと調子に乗りすぎた(というか、空気が読めなかった)ために鎌倉殿(頼朝)にシメられた、と。

要は源氏の内輪もめなんですけどね。

結局、義仲は粟津(琵琶湖畔の地)で討ち取られ、乳兄弟の今井兼平も壮絶な最期を遂げます(巻第9・木曾最期)。

この今井兼平の妹が巴御前ですが、彼女は最後まで義仲に付き従うことを望んでいたのにも拘らず、「討死する時、女を連れていたと言われたら恥だ」と連れて行ってもらえませんでした。

本当に恥だと思って連れて行かなかったのかどうかは本人のみぞ知る…ですけどね。

これだけ慕われていたのですから、魅力的な人物ではあったのでしょう。

 明日は24節気の一つ【大寒】。

寒さがピークの時期ですが、宇治川の戦いはこんな寒さの中で繰り広げられたのでした。

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